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"新京阪" 掲示板 - 過去ログ[0042]

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● 新京成と京成がタッグ!

投稿者:上新庄さん  投稿日:2019/04/11(Thu) 23:53:28
No.4276

新京成電鉄と京成電鉄は新形車両を共同で開発し、新京成電鉄は2019年冬から「80000形」を、京成電鉄は2019年秋から「3100形」を導入します。

車体や基本的な仕様は共通としつつも新京成の80000形はドア上のLCDを2画面とも路線図を使用します。また、行き先表示器にも駅ナンバリングを使い外国人にもわかりやすくします。京成千葉線の乗り入れは未定のようです。
また、京成3100形は空港利用者に配慮してスーツケースが置けるスペースをつくります。またドア上のLCDは2画面ですが片方が路線図、もう片方は広告を流します。
カラーは新京成80000形はコーポレートカラーのピンクを、京成3100形はスカイアクセスのラインカラーのオレンジがベースになります。

ついに新形車両の導入になりましたがまさかの新京成と京成の共同開発、つまりコラボが実現しました!
京成は3100形は復活ですが新京成はまさかの5桁になりました!
これまでは東武8000系に5桁の車両があったり、東武70000系や小田急70000形にはありましたが、それを上回る数字の形式が誕生しました!
新京成がかなり本気になってる辺り、8000形のみならず8800形の置き換えも視野に入れそうです!
ただ気になるのは80000形が自社線しか書かれていませんでした。
京成乗り入れはどうなるか気になります。
とはいえ新京成80000形と京成3100形に期待しましょう!


● 京阪・新京阪梅田線-12

投稿者:671001さん  投稿日:2019/04/08(Mon) 20:12:06
No.4275  - E-mail -

『京阪・新京阪梅田線』-12 No.4273のつづき

「京阪・新京阪梅田線」をまとめるにあたって
 今回は、100年前の「淀川西岸線」から城東線廃線跡を利用しての梅田進出を計画した前後からの動きを取り上げた。
使った史料(公文書等)、資料(社史・一般誌・新聞・他)は主として、京都府立京都学・歴彩館、大阪市公文書館で所蔵されている史料・資料を中心に京阪社史「百年のあゆみ」からである。

 史料はタイプ打ちから毛筆、万年筆等さまざまで手書きで作成された文書は個人差があり読み取れない史料も。更にはお役所言葉と旧漢字で書かれているため素人には理解しずらい。したがって文書の前後の文脈から判断する事が多く間違った解釈をしている事もあると思う。

 又、計画はいくつものルートがあり複雑に絡み合いしかも長期にわたる空白期間があり、一見しただけでは何が何やらさっぱり分からない。そこで分かり易いように京阪社史「百年のあゆみ」の年表をベースに史料・資料から関係する項目を書き加え新たな年表を作成した。年表にはそれぞれの項目に町名・番地を付けすぐに探し出せるようにした。
 ただ全ての史料・資料に作成年月日が記入されている分けではない、不明な史料・資料には前後の文脈から判断せざるを得ない。ここでも誤った判断をしている事もあると思う。

 その史料の閲覧については膨大な量となる為現場で閲覧している時間は限られるので、必要と思う史料を撮影し後でパソコンで見る事となる。実はパソコンで見る事は大変便利な面があり、画像の補正が出来る事から本物の史料より綺麗に出来る事と細かな図面・地図は直ぐに拡大表示が出来見やすくなる。更に必要な個所はプリントする事で持って歩く事が出来る。

 史料を纏めるに当たっては、出来るだけ複数の史料と現在の地図を持参し現地を確認するようにしました。計画だけで終わった事から想像を膨らませるしか有りませんが現地を歩く事で見えないものが見えたように感じます。

 その他、京阪社史には大阪市内延伸計画として6項目が記載され、Eで梅田支線(吹田-大阪間)が挙げられているが確認出来る史料がなくここでは省略としました。逆に社史には記載されていない「梅田支線連絡線」と「高垣町線」を前記の如く取り上げた。

 今回は複雑に絡み合ったルートを少しでも分かり易い様に、路線図を書き入れましたが位置がずれ上手くいきませんでした。「京阪・新京阪梅田線」全線図を描く予定でしたが、一部でもお分かりいただけたでしょうか。

 「京阪・新京阪梅田線」の出来を自己評価すると70点位で今までで一番低い点数です。それは不明な点が色々と残っており調査の限界を感じているからです。それでも今まで知られていなかつた事が多数ありお伝え出来た事は良かったと思っています。

『参考文献・他』
・京阪社史「京阪百年のあゆみ」 2011年3月24日発行 閲覧自由
・京都府庁文書 昭和三年 新京阪鐡道 工事施工
・京都府庁文書 京阪電気鐡道淀川兩岸線竝権利義務譲渡ニ関スル一件
  以上、京都府立京都学・歴彩館所蔵 閲覧申請必要
・電鉄生活三十年 太田光熈 1938年 京都府立図書館本館所蔵
・京阪電気鉄道工事ニ関スル綴 昭和2年度〜昭和5年度編集
・私鉄特許関係書類(京阪其の1) 大正10年〜昭和17年編集
  以上、大阪市公文書館所蔵 閲覧申請必要
・鉄道ピクトリアル 各号 個人所有
・阪急電車 駅めぐり 空から見た街と駅 京都線の巻 昭和56年4月10日 阪急電鉄 個人所有
・PRESSE EISENBAHN レイル No.43 阪急京都線特急史 2002年10月1日発行 個人所有
・JTBキャンブックス 大阪市電が走った街 今昔 辰巳 博・著 福田静二・編 2000年12月1日発行 個人所有
・JTBキャンブックス 鉄道未成線を歩く 私鉄編 森口誠之 2001年9月1日発行 個人所有
・地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み 関西1 阪神・阪急・京阪 今尾恵介 2017年3月30日発行 個人所有 
以下、インターネットから
・ロードマップはMapion
・地理院地図(電子国土Web)
・国際日本文化研究センター 日文研データーべースの所蔵地図から
・なにわの地下鉄

『最後に』
今回の「京阪・新京阪梅田線」をもって、「新京阪シリーズ」の最終回としたいと思います。
 2017年3月に「名古屋急行電氣鐡道」を投稿しました。最初のきっかけは知りたかつた名古屋急行に関する史料が滋賀県県政資料室で所蔵されている事から始まります。さつそく閲覧させていただくと驚いた事に大津から名古屋迄のルートが2本あったことでした。しかも従来から定説とされていたルートとは全く違いその後の調査で名古屋まで4ルートも計画された事でした。
この事は「名古屋急行」で説明していますが、その後大阪から大津まではどうだつたかと次々疑問が湧きます。
結果として下記のように今回の「京阪・新京阪梅田線」へと繋がりました。
 2017年3月3日〜  名古屋急行電氣鐡道1-7
 2017年8月25日〜  京阪大津線・六地蔵線と新京阪山科線1-6
 2018年1月1日〜  新京阪鐡道1-7
 2018年4月16日〜  京阪淀川西岸線1-6
 2018年11月1日〜  新京阪鐡道続編1-5
 2019年3月19日〜  京阪・新京阪梅田線1-12
結果的に時代背景と新京阪が主体となった事から「新京阪シリーズ」と今になって名づけました。
まだご覧になっていない場合は、いつでも本稿最下段の「過去ログ」からご覧になれます。ぜひご覧下さい。

 投稿したものの、誤字・脱字・思い違い等、後で分かりましたが特に訂正はしませんでした。誤差の範囲と勝手な理由からです。それと皆様の投稿に対する反応は全くわかりません、ひとりよがりの投稿であったと思いますが掲示板管理人Fair_Fare様の好意的なコメントで続ける事ができました。

 史料閲覧に当り、滋賀県県政資料室、京都府立京都学・歴彩館、大阪市公文書館の皆様には毎回大変お世話になりありがとうございました。この場をお借りし、お礼申し上げます。

 今後については、閲覧した資料の中には大正から昭和初期にかけ京阪間の鉄道計画が山ほどあります。お伝えする機会があれば良いのですが。

最後の最後に、「新京阪シリーズ」長きにわたりご覧いただきありがとうございました。


● 名鉄に新系列デビュー予定

投稿者:麻夫さん  投稿日:2019/04/08(Mon) 18:00:44
No.4274  - E-mail -

 こんばんわ、新年度になりました。5月には平成に次ぐ元号である令和時代が始まりますが、名古屋鉄道では、久方ぶりの新系列車両がお目見えするそうです。
 系列は9500系となるようで、これにて小田急・京急・京成・大阪トロ以外の大手(小田急は過去に存在)では、各社で9000番台が存在することになりますが、この新車のデザインは、3300系をベースにしており、正面のライト類と、サイドビューのラインに変更があるようです。内装ではWifiが設定されるほか、液晶モニター案内も大きく感じましたが、この車両もロングシートで、かつての名鉄らしからぬ仕様となるようです。
 名鉄といえば、かつては2ドアークロスシートが標準で、1976年の6000系で3つ扉になったものの、セミクロスシートを採用し、横引カーテンと、大手私鉄の通勤車両としてはゴージャスでした。
また、比較的長く車両を使う会社で、10年くらい前まで昭和30年代の車両もいましたし、戦前型の釣りかけ車両もいましたが、その後はセミクロスからオールロングが増え、さらにステンレスカーとなるなど、かつての名鉄タイプの車両はどんどん減ってゆき、使用年限も10年くらい前に、昭和30年代以前の車両はもとより、昭和40年代の車両も消滅したので、一気に若返りましたが、その分ほかの大手と同じ仕様になってしまいました。
つい先日、名古屋方面に遠征に行った際、遭遇した電車はロングシートの割合が高く、全自由席特急でもロングシート車両で、最後の名鉄タイプの車両ともいえる5700系に関しては、残念ながらまったく出会うことはありませんでした。
しかし新しい車両に遭遇することも多く、2200系の自由席車両や3300/3150けいでは、液晶ディスプレイ式表示器でしたし、蛍光灯もLEDで、ちょっとしたアクリルカバーもついていたので快適でした。
名鉄タイプの車両が消えていくのは残念ですが、これも時代でしょうか・令和時代に登場する9500系にも期待したいところです…


● 京阪・新京阪梅田線-11

投稿者:671001さん  投稿日:2019/04/08(Mon) 09:16:38
No.4273  - E-mail -

『京阪・新京阪梅田線』-11 No.4272のつづき

タイトル欄未記入となり失礼いたしました。

『電鉄生活三十年』
 この時代のトップであつた太田光熈さんの自伝「電鐵生活三十年」については、先の『名古屋急行電氣鐡道』と『淀川西岸線』でも一部紹介していますが、城東線払下げ問題を下記のように記しています。 要旨を記します。

十四 城東線拂下問題
・元田鐵相に話込む
 主務官庁の命令に従って、淀川西岸線は天満橋以外に起點を設ける事になつた
政府で城東線の改築の計畫がある事を知り、元の線路は癈線となるのでこれを京阪で負擔し拂下げを受けると梅田に起點を得られる。そこで京阪が拂下げを受ける事が得策と考え、その改築費用五百七十萬圓を京阪で負擔し拂下げを受ける決心をし鐵道院に石丸氏を訪ねその旨を通じた。
 この提案に対して流石の石丸氏も驚いて、京阪にそんな莫大な金を出してもよいのかとのことであつたが、梅田乗入れが出来るならば七八百万の金を惜しむものでないと答えると、石丸氏は重ねて重役会の決議を経ているのか念を押された。
会社の重役には内々同意を得て間違いないと答えるが、石丸氏は余程心配され石丸氏の意を受けたかどうかは知らぬが別の人が訪ねられ注意を與へられたが断乎として責任を負うと云い切った。
 そして主務官庁の大体の了解を得、大正九年二月一日出願し副総裁の石丸氏の決済が終った時、鉄道院から鉄道省となり初代鐡道大臣に元田肇氏が就任された。
 自分はこのことを一日前に知り、会社の一大事と私邸に元田氏を訪ね事情を詳しく話し、副総裁の決済は得たが総裁の決済を得るに至っていない、その節は何分宜しくと申し出たが、自分と元田氏とは親類の間柄であったが中々容易に引受けず「それは困る京阪は岡崎が社長をしているそれに君は縁遠でもある。世間の思惑あるから十分に研究してからでないと何とも云えない」とのことであった。
 自分は更に「鉄道省として何ら損失がないのみならず、寧ろ利益になることだから篤と御考慮ありたい」と云って引き下がりその足で石丸氏に会見顛末を報告した。
その後石丸氏より元田氏に事情を話したので漸く納得され原総理に相談されたらしい。
かくて大正九年五月二十日認可指令が下った。

・払下条件の内容
 払下条件の内容は城東線の北区中野町信号所より同区葉村町に至る線路並に停留場敷地、軌条橋梁類全部を払下げ、京阪はこれに対し五百七十万円を負担することで同月二十四日に請書を提出、同時に淀川西岸線の起点を葉村町に変更する願書も提出した。
 この事が世間に公表されるや、大阪市の自治権を侵害したというので、大阪市會の大問題となり大阪府の知事が京阪の出願に対し市会に諮問しなかったことから非難攻撃され、次いで京阪社長に対しても非難となり、果ては帝国議会の問題ともなって世間を騒がすに至っては我々の以外とするところで、遺憾千万に思っている。
 一方城東線の改築は予定通り施工せず、工事の遅れる許りであるので淀川西岸線を別会社として新京阪を創立したが、大阪に出る道がないので当時葬儀電車と呼ばれた北大阪電鐵を買収し新京阪の工事を開始した。
 政府が城東線の改築を予定どおり施工してくれたならば、北大阪電鐵を買収せずとも済んだ。結局大阪へ出たいがために、二重の投資をした譯である。
 その後城東線の改築は変更され、現在の線路となり工事費も三百万円餘ですみ、負担は減少した。この結果として京阪は省線と隣接し競争することになるが都合上工事着手するに至らない。
それは兎も角新京阪が北大阪電鐵を買収し天神橋吹田間を造ったことは、二重の負担で最初の計画に狂いが生じた。
  と「電鐵生活三十年」に記されている。

積極経営で知られた、太田社長の関わった当時の京阪の主なプロジェクト
100年前の大正から昭和初期にかけ京阪では、大きなプロジェクトが続いた。その一部の関連する項目を整理すると、
・新京阪鐡道
 1918(大正7)年4月京阪淀川西岸線特許出願→1922年6月新京阪鐡道創立→1928年11月新京阪天神橋-西院開業→
 1931年3月京都地下線西院-大宮間開業
・京阪・新京阪梅田線(城東線廃線跡利用)
 1920(大正9)年5月城東線払下げ許可、様々な変遷の後1942年全て消滅
・蒲生-守口間高架複々線化
 1921(大正10)年8月蒲生-森小路間直線化特許→1924年12月蒲生-守口間複々線化変更許可→1928年12月高架化認可→
 1933年12月蒲生-守口間(4.2Km)高架複々線化竣工
・名古屋急行電氣鐡道
 1928(昭和3)年3月大津-名古屋間免許出願→1935年7月免許失効

 企業の命運を左右する大きなプロジェクト、花咲いたもの幻として終わったものと様々であるがある時期には幾つものプロジェクトが重なり現場は大変な思いであった事だろう。
・「新京阪」はその後阪急京都線に転身、淀川西岸で重要な位置を占め今や本家京阪の良きライバルである。
・「京阪・新京阪梅田線」は最初から大阪市の反発でつまづき、その後も続き最後まで梅田進出は実らなかった。
・淀川東岸での「蒲生-守口間高架複々線」は正に私鉄の複々線のモデルで戦前に完成していたとは驚き以外ない。
 戦前に於ける京阪の輝かしい成果と言っていいのでは。
 ただ「高架複々線」に関しては「電鐵生活三十年」には記載されていない。
   尚、「蒲生-守口間高架複々線」に関する史料は、大阪市公文書館に所蔵されている。
・「名古屋急行」は名阪間を2時間で結ぶという壮大な計画であった。結果的には「絵に書いた餅」で終わってしまった。
 しかし新京阪を語る時、「名古屋急行」は外せない。京阪社史「百年のあゆみ」でも「名古屋急行電鉄計画」として
 ほぼ1ページと別枠で「04新京阪と名古屋急行電鉄」として4ページにわたり取り上げている。

太田光熈 1925(大正14)年4月24日  社長就任
     1936(昭和11)年10月28日  会長就任
     1938(昭和13)年1月    「電鐵生活三十年」自費出版
     1939(昭和14)年9月30日  会長辞任、相談役に
     1939(昭和14)年10月14日  死去

つづく


● (タイトル欄未記入)

投稿者:671001さん  投稿日:2019/04/07(Sun) 09:08:34
No.4272  - E-mail -

『京阪・新京阪梅田線』-10 No.4270のつづき

『城東線旧線敷地利用の断念』
ここからは、主として京阪社史「百年のあゆみ」を要約して記します。

 1920年(大正9)年5月に払下げ認可を受けた城東線廃線跡は、城東線の別線高架がなかなか進まなかった。
1927(昭和2)年12月鉄道省との協定改正があり、京阪が高架式城東線を建設し竣工後に廃線跡と交換する事となった。
ようやく1928年7月に着工し1932年5月にほぼ完成となりこの時までに京阪は318万円の工事費を支出していた。
今後廃線跡を活用した「京阪城東線」の実現にはさらに1000万円余りの資金を必要とした。
 しかし1932年のこの時点で、京阪の経営は苦境に陥っており、建設には大阪市の都市計画などから諸所の条件をつけられいつ開業できるか目途の立たない状況であった。

 1932年7月5日、京阪は鉄道大臣に城東線移設工事の繰り延べもしくは工事費支払い猶予を訴えたものの、翌8月26日には「工事未成部分処理方御決定ト同時ニ、之ガ既成部分ヲ貴省ニ御引継ノコトニ致度」として、即時撤退を願い出た。
鉄道省は11月18日に、@京阪の負担は318万円を限度としね残余工事は鉄道省で施工する。A京阪の負担分は相当額の土地および建設物と交換する、などの条件を提示し12月6日に合意が成立した。

 城東線の桜ノ宮-大阪間は1933年2月16日から新線で営業を開始。一方上記の取り決めに基ずく資産処理は直ちに実行されず清算されたのは1941年12月になってからであった。
鉄道省から京阪へ引き渡す土地として大阪駅の阪急電鉄跨線橋付近の阪急デパート北側の駅設置予定地が指定された。しかしこの土地は阪急のデパートや駅に隣接する事から阪急の介入があり、譲受した土地一切は阪急に譲渡する事に。

 こうして京阪は梅田進出の足掛かりを全て失う事となった。
梅田延伸に関連して申請していた、別所町-北長柄町間、葉村町-上新庄間、天神橋六丁目-高垣町間、野江三丁目-中野町間の申請を取下げた(同年9月21日認可)

社史では上記のように記されているが、
 城東線廃線跡を利用して梅田進出を計画してから実に20年以上経過した事となる。この間にはいくつかの動きがあった。
・最初期の1920(大正9)年頃は、京阪が城東線廃線跡の利用を計画しが大阪市の反発を招き問題化した時期であった。その後城東線別線高架が進まず9年の空白期間が生ずる。

・昭和となり1928(昭和3)年に城東線高架化が現在線に変更となり再び動き出す。
前回の事もあり、京阪は事前に大阪市に対応を申し入れるが、大阪市の反応は意外な回答で京阪・新京阪梅田線の経路を否定するような別線案を提示してくる。
 京阪・新京阪はその対応に追われ、又京阪自体の経営状況の悪化もあり新京阪線の淀川鉄橋建設にかかる建設費の負担から経路変更を天神橋を拠点に考えるようになる。
京阪本線からは森小路-梅田連絡線経由を野江からに変更(昭和3年)する事で工事費を大幅に削減、見直しを図る事となる。しかし昭和5年になり計画中止を大阪府に申しいれている。

・梅田進出の最後の砦となった高垣町線も前記のごとく10年余りの空白の末、京阪の夢であった梅田進出は総て消え去る事に。

つづく


 


● 小ネタ

投稿者:通りさん  投稿日:2019/04/04(Thu) 23:13:17
No.4271


東武鉄道が東京メトロ日比谷線直通列車のごく一部みたいらしいですが
有料着席サービスを実施したいと公式サイトにて発表されておりましたよ・・・